昭和42年12月12日 朝の御理解


御理解第一節
「今天地の開ける音を聞いて目をさませ」


 今天地の開ける音を聞いて目をさませ。同じく第二節に「先の世までもっていかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事がでける。みてるという事がない」先の世までもっていかれ子孫までも残るものは神徳じゃと、神徳は信心すれば誰でも受ける事がでける。みてるという事がない。今天地の開ける音を聞いて目を覚ますという事は非常に見解が広い。これは仏教でいう一つの悟りの事だと思うですね。心が開ける、ね、どういう風に大体開けたが一番有難い事になるのかというと第二節に続いております先の世までも持っていかれ子孫までも残るものは神徳じゃと、神徳は信心をすれば誰でも受けられる、受ける事がでける。みてるという事がないという事。そいういう事をです、心の中に開かせて頂く。信心させてもらえりゃ神徳が受けられると、いや信心をしなければ神徳を受ける事がでけない。しかもその神徳というのは、あの世までも持っていかれ、この世にも残しておく事がでける。しかもみてるという事がない。限りがない。限りなく神徳は頂けていけれるものだというところに、私はひとつ皆さんが、今天地の開ける音を聞いて目を覚ますというなら、そういう事が開けてくる信心が素晴らしいと思うですね。そこから私は信心の姿勢というかね、進め方も自ずと開けてくる。只今私が申しますが、御理解の中の神徳というてから「目に見えるもんじゃあない」あの世があるやらないやら分からん。この世に残るち、ほんなこつちゃろか。こう言うたら、もうおしまい。けれども言葉にはそうださなくてもそんなに考え方をしておる人がどれくらいおるか分からんのです。兎に角この世は極楽、この世で極楽すりゃいい。この極楽というても信心から生れてる極楽ではなくて、立派なお家に住んだり百味の御飲食的なお御馳走が食べられる様な身分になったり地位がでけたりお金がでけたりねえ、そういう事だけに眩惑される。確かにそういうですね、誘惑するに十分の魅力をもっているんですよね。お金でも物でも立派なお家でも立派な着物でも、私共も迷わすだけの働きというか力をもっている。ね、そこを私共がそんなもんじゃない。人間の幸せというのは、そんなもんじゃない。神徳を受けなければ、神様の御信用を頂かなければと心が開いてくる。そこから信心が分かってくる。本当の信心の所謂姿勢が違ってくる、ね。所謂表よりも裏を大事にする様になり、形よりも形のない所を見極めようとする。言わば精進ともでけてくる様になるという事を、どうでしょうか、お互いの場合、その原理的ひとつの極楽といった様なね、原理的疑惑といった様なものに眩惑されておる事はなかろうか。まあせめて、それも半分、これも半分という様なことろ迄位は、「   」成程これがお徳という様なものであろうか、しかもこの、これがあの世にも持っていかれるんだなあ、あの世にも残しておけるんだなあという、おぼろげなものでもでけてくると、この信心の楽しみというものが一段と有難いものになってくる。
 何辺もやはりひとつ味わいというものが分からなければならない。これは体に効くから飲みなさい食べなさい、やはりその体に効くほどしのものなら、食べよいものやら飲みよいものばっかりはない。ねえ、良薬は口に苦しとこういう。本当に味わいのあるものは、味のあるものはかえって食べにくい食物である。味わいが分かってくると、それが段々分かってくるんですね。私共は少年時代にトマトが初めて学校で栽培されました。農業科でもうそりゃ見事に沢山なったんですね。真っ赤な林檎のような沢山なるもんですから、やっぱり皆がそれを、これはおいしかろうと思うとちぎって食べる。一口食べるとですね、もうむっとする様な味がする、したんですね。確かに私共が、ですから、一口こぶっちゃ皆が捨てました。こげなもんな、もう一辺二辺は綺麗にでけるというだけで花の様に見るだけでした。それを好んで食べるという者はございませんでしたけれど、さあー三年、四年しだしたらですね、もうそれこそあの炎天に暑い、まあだ冷やしてもせんものにガブガブ三つでん四つでん続けて食べるほど味わいのあるものになった、ねえ。トマトは体に良い、おいしゅうもあるという事になってきた。初めの間は体に効くげなばってんが、こりゃなかなか食べられんというて、よう食べなかったんですよ、ね。
 私共は長ーく支那北京におりました。もうあちらへ参りましたら電車に乗りましても道を歩いてもニンニクの臭いが、ニンニクと油の臭いで、もうむっとする様にありました。ところが、その油を、そのニンニクを食べなければお食事した様にない様になってしまったんですからね。もう一切のものにニンニクが入る。これは日本人独特のものと言われておる、味噌のおつゆにまで入れる、味が出るんです。もう言わばあちらの味の素と言われる位に味が出るんです、ニンニクというものは。只あの臭いが、ところが、その魅力、臭いがその魅力、その臭いが素晴らしい。私共北京から帰ったはなに家内が味噌のおつゆに必ずそのニンニクを刻んで入れるんですね。始めの間は皆おいしいおいしいと言うて食べよったけれども、だーんだん食べてんなかごつなった。もう私と家内だけ、そして始めて気が付いた。だーれも「   」所謂五十枝さんが作ったんじゃけんおいしなかて言われんもんじゃから辛抱しておったばってん、とうとう辛抱しきれんごとなって食べんごとなってしまった。それから始めて気が付いてから、こりゃお前がニンニクば入れるけんばいと言うて、そのニンニクをやめたんですけれども、そのまま辛抱しとったらニンニクの味がですねえ、よかったんですけれども、ニンニクの味が分からんなりにしまえた。又、あれが一人二人食べたんじゃいかんですよね。皆が食べなければ、もう時々あのニンニクなんか食べる方があるんですよ。もうここでお届けされると、もう今の私はいやですね。あんた、ニンニク食べてきたろといおごたる。もう便所行っても臭いですね、ニンニク食べた人は。それが全部がそうなるとニンニクの臭いが味わいになり魅力になるのですよ。
 ね、ですから信心の味わいも同じ事です。信心というのは、やはりニンニクじゃないですけどもトマトじゃないですけども、確かに体に効くどころじゃない。それこそあの世までも持っていけるもの、この世にも残しておけれるもの、本当に日々が有難い勿体ない生活がでけるような、いわば内容を持っておるのが信心なのです。そういう素晴らしいものであってもなかなか信心に本当にくみつくというまでには、その味わいが分かってくるまでには時間がかかる。ねえ、だからやっぱり食べたくなくても飲みたくなくても、それを辛抱していきよるうちに信心辛抱しておればとおっしゃる辛抱さして頂いとるうちに信心の味わいというものが分かってくる。信心の味わいが分かってくるですねえ。どういう事になるかというと第一、その人の、を中心とする家庭がですね、非常になごんでくるです、なごやかになってくるです。信心の味わいが分かった人が中心になって参りますと、ですから、それが例えば主人が信心になると家内でも子供達でも、その雰囲気が段々しみ込んでいく、伝わっていく、もし家庭の中にそういう雰囲気がないなら、まあだその味わいが分かっとらん。
 御本部参拝でも、もう現在椛目で五十名位でしょうかね、御本部参拝の味が分かっておるのは。もう金が無くても時間が無くても、これだけはどうかしてお繰り合わせ頂きたい味わいが分かるからです。まあ私だん、合楽にお参りしよるけん、そげんわざわざ御本部に参らんでん神様は同じこつじゃもん、という間はまあだ御本部参拝の味わいが分かってないからだ。御本部に参いりゃ御本部に参っただけの味わいというものが段々分かってくる。特にこれをこうして皆さん朝参りをされる、朝参りをする。朝参りの味わいが分かるところまで朝参りを続けたい。お願いがあるから朝参りをするというぐらいな事でですね。朝参りの味わいが分かる、私はお徳を受けていく信心というのは、こういう朝参り的な信心に味わいが分かってくるところから身に徳がついてくると、こういうですね。
 昨日、昨日は伊万里の竹内先生ところの奥さんの里の御霊様の式年祭がここでございました。昼頃みえましたから、色々準備がございますから、二時頃準備がでけるの待たして頂いとる間にテレビを見よったら漫才がありよりました。あんまり名も知らない若い人達の漫才でしたが、なかなか器用に斬新な感じはあったけれどもなかなか皆がそれを見よるけれども笑わん。とても漫才というのは人を笑わせるというのが漫才の狙いなのでしょうがね。ところが笑わん、だから、その笑いの催促をする。そすとあちらこちらとちょくちょく笑うだけですねえ。私共、その事を実際見っとたら、こりゃほんに「   」感じのする漫才だった。二組ありました。次には時々見る有名漫才でしょう。私よく知りませんけれども、顔が広ーいとですよ。ねえ、もう舞台に出ただけで皆が笑いよる。笑いの雰囲気というものを持っているんですねえ。笑わせようと一生懸命片っぽは努力しとっても笑われないね。勿論その笑いの雰囲気というものをです、身につけておる。平凡な事を言っておるけれども一言一言皆がアーッと笑う。信心もやっぱり同じ事、ねえ。信心とは有難くなる稽古だからというて、いかに有難いお話を有難そうにして話しておってもです、話しておる、その人自身の有難い雰囲気を持たなかったら有難くなれない、ね。家庭の中においてもそうなんです。
 私は、この信心の味わいが分かってくるという事はねえ、有難いという味わいが分かってくる事だと思う。眠くもある寒くもあるけれども、有難いとには、有難いという、それにはそれを頂く為には、やはりこの冷たいところ寒いところを通らなければ頂けないという事に分かってくる。そういう私は信心がですね、分からしてもらう、そういう信心の有難いという味わいの中から開けてくるのである。しかも翻然として開けてくるのである。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと、こうおっしゃる。ねえ、それが私共のものになる。心に開けてくるのです。これは教えられたからというて分かるものではない。ねえ、そして次に先の世までも持って行かれるのが、これだなあという事が分からせてもらう様になる。成程これならあの世にも持っていけれるに違いない。これなら成程子孫にも残しておけれるだろうという確信が段々持てれる様になる。ね、そういう私は信心こそが、私はいよいよ信心の味わいの分かった人といえるのじゃなかろうかと、こう思う。そういう信心が分かってくる時に自ずと身に付いてくるのが信心。有難いという雰囲気ではなかろうかと、こう思う、ね。そういう信心の有難いと、雰囲気が自分の周囲に漂うような信心を頂きたい。辛いけれども寒いけれども、やっぱり美味しい、やっぱり有難い、そういう信心になる。時に、その信心は強い?についていく。信心しかもそれはみてるという事がないと仰る様に、限りなくその味わいというものは、そういう信心とうのは身に付いていくところのおかげが受けられるねえ。
 今日は、福岡の支部のまあ言うならば教祖大祭でございます。に合わせて秋永先生ところのお店が新築になりましたから、それの報告のお祭も、それに合わせて致しますそうです。夕べ遅う徹君がやってまいりましてから、式次第を教えて頂きたいと言うてやって参りました。今迄とは違ったお祭を仕えたいと思うのだと私は思うた。それで式次第を若先生が書いてやっとりましたがです、福岡の人達が秋永先生を中心にして、ね、いわば合楽のいうなら支部というなら本部となりましょうかね、親教会の私を迎えお祭を奉仕したいとこう言う。ねえ、そのお祭を仕える、お祭を奉仕させてもらうという事の味わいというものを、恐ろしく夕べは皆さんが夜通しで御用なさったであろうとこう思います。とても信心の味わいというものが分かってこなければでけるこっちゃございません。信心の、その有難いというものが分かってこなければ、ね、でけるこつじゃないまでに福岡関係の人達は、その味わいというものが分かっていきよると私は思うですね。これはまあ秋永先生の信心の徳だとこう思うですけれども、秋永先生、とやこう言いながらもやっぱ皆がついて行く。そしてさあ御大祭という事になると、もう本当にうって一丸になって福岡の方達は御大祭にあたられる。これは味わいが分かってこなければでける事じゃないのです。それは福岡の方達だけじゃないのですけれども、やはりまあ合楽ではですねえ、ちょっとした、まあちょっとしたちは失礼ですけれども、まあ手本だとこう思うです。
 先日も、ある人が言ってました。合楽の信心の中には土井の信心と福岡の信心がひとつになって現在の合楽の御比礼を作っておるという事を言うております。ねえ、確かにここに信心をまあ分析いたしますとですね、もう全然極端から極端ですね。福岡のあの方達の生き方と土井の方達の生き方、それがなんとはなしにひとつのものになってしまっとる。ねえ言うならばです、それこそ、まあニンニクといおうがトマトといおうが、そのトマトの味わいとニンニクの味わいがです、一つに根源とシナリオの様に一つの味わいを作っておる。それが成程御本部参拝を、さして頂いてもここの御大祭をどう頂きましても様々な会合を見ましても、そういう雰囲気が確かにある様です。というてかけ離れていない。それこそニンニクとトマトが一緒に渾然としてですね、味わいを作っていっておるという様な感じ。これは何処にも類の無い真似の出来ない様な感じが致します。そういう味わいのものを私共が頂かしてもらわなければならんと思うですね。どうぞ。